拝啓、俺。

前略、俺に二度目の人生があるならこう生きてくれ。

深い色の目をした女の子

木の葉がオレンジや赤に色づく季節。この病室から見える山肌も不格好ではあるが、少しずつ塗り替えられている。「外は随分と寒くなったのだろうか」と思ってひさしぶりに病棟を出ることにした。

 

小・中学校の近くにあるこの病棟は中庭に遊具があって、休日の昼間は子どもが結構遊びに来る。どの病室からも中庭が見えるようになっていると看護婦の一人が話してくれた。病院に子どもが遊びに来る、というのは可笑しな話だがぼくが今病棟を出ようと思ったのは遊びに来る子どもたちの格好が最近、急に秋らしくなってきたことを見たからだった。

 

17時過ぎの中庭にはもう子どもたちはいなかった。砂場の横にある背もたれ付きのベンチに腰掛ける。病室の薄い羽織じゃ少し寒い。今まで病室から見下ろしていた中庭はここまで降りてくると存外大きかった。目の前の砂場は子どもが遊ぶにはどう考えても大きすぎる。ぼくが小学生のときに遊んでいた公園の砂場の3倍くらいはある。大人になってから見ると、実はこんなに小さかったのか、と驚くもんだと思っていたけれど、この中庭の遊具は素直に大きい。その他の遊具も10数年前と変わり映えこそしないが、どれも3倍くらいある。まるで、大人用の公園みたいだな、と思った。

 

そろそろ帰るかと立ち上がろうとしたとき、隣のベンチで本を読んでいる女子に気が付いた。背格好は中学生くらいだろうか。胸と腰の間くらいまである長い髪に強めのカールが巻いてある。メガネをかけているから表情までは見えない。制服を着ているが見たことがないデザインだ。ここら辺の中学校ではないのかもしれない。もう17時半になろうとしている。この病棟の入り口は18時に閉まる。ここら辺の子じゃないのならもしかしたら知らないのかもしれない、教えてあげることにした。

 

近くまで歩いていくと本のタイトルが目に入った。―グラスホッパー―ぼくも読んだことがある伊坂幸太郎の有名作だ。妻をひき逃げした男に復讐するために職を辞して裏社会でその男の父親が経営する会社に入社した鈴木と殺し屋たちの物語。中学生が読むには難しい本だ。そんな本をこの女の子が読んでいるので「へえ、文学少女だな」と思った。まだ1/4くらいのところを読んでいるようだ。

 

「ねえ君、そろそろ暗くなるから帰った方がいいよ」

なんと声を掛けるか、少し悩んだがそういうと女の子は訝しげにぼくを見て

「もう少し。ここが閉まる頃に帰る。」

と言って本に目を戻した。

 

この病棟が閉まることを知っていたようだ。「それなら、気をつけて帰り」と立ち去ることにしたが最後に「それとその本、電車のホームで終わるよ」とからかってみた。

 

「知ってるよ。この本3周目だから。」

女の子は本から目を離さずに答えた。

 

「え?もう3回読んでるってこと?」

「そう」

「そんなにいい本だった?」

「面白かったけどそういうんじゃなくて、私、どの本も3回読むし」

 

変わった子だ。ぼくも面白い本は読み返すことはあるが2回読めば十分だし、読み返すのは特に面白いと思った本くらいだ。この子にとってみればすべての本が面白いのだろうか。そうではあるまい。

 

「なんで3回も読むの?」

 

あまり質問攻めにするのは良くないとは思ったし、本がかなり好きであろうこの女の子は本に集中したいだろう。それでも気になってしまって聞いてしまった。

 

「あ、いや、いいや。それじゃ早めに帰るんだよ」

聞いたもののこれ以上あれこれ聞いてもな、と思ったから切り上げた。

 

すると、女の子は本から目を離して、あのね、と言った。

 

「あのね、一回目は普通に読むんだ。で、二回目は結末を知った状態で読むから伏線とかに気づくの。二回目はこれが伏線か、って分かっていくのが楽しくて読むの。でね、三回目は表現を見てるの。ここはこれ以外の表現じゃダメなのかな、なんでこの表現を使ったんだろって伊坂幸太郎の気持ちを読んでるんだよ。」

 

「どんな本にも伏線はあるし、著者の気持ちはあるでしょ?全部一回ずつ読んだら3回になるでしょ?」

 

なるほど、と思った。そこまで言って、女の子は本を閉じた。さっきはメガネで見えなかった表情が今は良く見える。深い色をした目だ。

 

「そういうことか、君は賢いんだね」

「別に賢いわけじゃないわ。そういうのが好きなだけ。」

 

そういうと女の子は学生カバンに小説をなおして立ち上がる。身長も小さかった。ぼくの肩より下、胸よりちょっと上くらいにある顔はぼくを見上げた。

 

「それから。私のこと中学生か小学生だと思ってるだろうけど、高校三年だから。」

 

それだけ言うと振り返って帰り道に歩き始めた。

 

「ちょっと待って、なんでぼくが…」

 

「簡単よ。私に話しかけてきたとき『暗くなるから帰った方がいいよ』って言ったでしょ?あなたはまだ20歳かそこらに見えるのに、まるですごい子どもに話しかけるみたいに『暗くなるから』って。私のこと高校生だと思っていたらきっと『そろそろ門が閉まるから』って言ったはずよ」

 

どう、間違っている?と初めて女の子は笑った。その通りだ。女の子はぼくのたったひと言からぼくの思考を完璧に読み切った。

 

「じゃあね。あなたも本を3回読むといいよ」

 

そういって深い色の目をした女の子は落ち葉の道を歩いて帰っていった。