拝啓、俺。

前略、俺に二度目の人生があるならこう生きてくれ。

談話室の自動販売機

第一話「深い色の目をした女の子


 

18時の閉門を過ぎるとみんな病室に戻る。談話室は24時間空いているが自販機が1台あってその前に6人掛けの机と椅子が1つおいてあるだけでテレビもないから長くいる場所ではない。それでも昼間は老人たちの語り場になっている。しかしそれも18時を過ぎると誰からともなく話を切り上げて各々の病室に戻っていく。

 

久々に病室を出たので、ついでに談話室にも寄っていこうと思った。

 

夕暮れのオレンジ色の光が窓から差し込んでリノリウムの冷たい床を暖かく照らしている。中庭から繋がっている長いこの廊下を進んで、突き当りを右に曲がったところにすぐ談話室はある。その談話室の少し奥の病室がぼくの部屋だ。この突き当りを左に曲がったことはない。一体、何があるのだろうか。今度また、外に出たときには左に曲がってみることにして今日は行かないことにしよう。曲がり角で左の通路を覗いてみたが窓も電球もない廊下だったので暗くてよく見えなかった。

 

談話室には男の子がいた。高校生くらいに見える。短いスポーツ刈りで背が高く、身体つきも良い。座っている机に松葉づえが立てかけてあるところを見ると、骨折で入院しているのだろう。病衣を着た男の子はちらっとぼくを見てすぐに手元のスマホに視線を戻した。この談話室には中庭が見える窓がついていてその上、間接照明まで24時間ついているので明るい。18時から誰も使わないのがもったいない。ジュースでも買おうと自販機の前まで歩いていった。そこまで来て、病室から出るときにお金を持ってこなかったことを思い出した。仕方がないので男の子の斜向かいの一番遠いところに座ることにした。

 

ここにはテレビがないし、手持ちのスマホも持って出てきていない。中庭にはもう誰もいない。病室では基本テレビを見ているだけだから、こうも何もすることがないとつまらないものだ。一冊くらい本を持っておくといいかもしれないな、と思った。今度は本を持って18時からの誰もいない談話室に来るのもいいかもしれない。そろそろ、変わり映えしないテレビ番組にも飽きてきたところだし。でも、どこで本を買えば良いのだろう。病棟には小さな売店があるが、本を置いているかは知らない。きっと無いだろう。ぼくには看病に来る人はいないから買ってきてと頼むことも出来ない。病棟の外の本屋に行くにはどうしたらいいのだろう。看護婦に言えば簡単に出してもらえるのだろうか。今まで出たことが無いから分からない。病院は不便だ。

 

「なあ、先生」

 

男の子が声を掛けてきた。だけどぼくは先生じゃないし、それが僕に向けて発せられたものだと気付けたのはここには男の子とぼく以外に誰もいないからだ。

 

「えっと、ぼくは君の先生じゃないけど」

「ええねん、さっき中庭で女子と喋ってたやろ。あれ、おれと同じクラスのやつやで」

 

この談話室からならさっきの一部始終が見える。

 

「センセ、知り合いやったん?」

「いや、ぼくもさっきはじめて出会ったばかりで…」

「じゃあナンパやったんか、あれ。女子高生に手を出したら犯罪やで」

「そんなわけないだろう」

「しかも、振られてたしな。まあセンセじゃ不釣り合いやな」

「だから、違うって」

「なんや、ナンパしたことないんやったらおれが教えたろか?まあでも、あの女子は本ばっか読んでるからクラスでも浮いとるわ。やめといた方がええな」

 

この男の子はなにが言いたいのだろうか。大人をからかうな、と言ってやろうかと思ったが、この病棟にはぼくや彼みたいな若い人間が少ないから暇つぶしに話かけてきただけなのだろう。歳が近いと見ると途端に馴れなれしくなるやつがいるが、ぼくはそういう人間が嫌いだ。

 

「君は高校生だろ?ナンパなんてする必要もないし、本当はしたこともないんじゃないか?骨折をはやく治さないとお得意のナンパも出来ないぞ」

 

かなり大人げがないが、これっくらい言ってやりたくなった。

 

「おもろいなセンセ。ナンパするために骨折したんやで」

「そうか、ナンパってのはホネが折れそうだな」

「文字通り骨が折れてるんやんけ!歩くのも大変やわ」

 

そういって男の子はガチガチにギブスした左足をコツコツと叩いた。

 

「失くして初めて当たり前にあるものの大切さを知るってよく言うけど、あれはホンマなんやな。センセもなにか失くしたことあるか?」

「そう言われてみればこれってものはないかもな。今は本があればいいなくらいしか思ってない。」

「やっぱあの女の子のこと考えてるんやんけ」

「いやだから…」

 

そこまで言いかけて、言葉が詰まった。少年の言う通りなのかもしれない。別にあの女の子のことを恋愛対象として見たわけではないが、考え方は好きだと思った。だからナンパでもなんでもないがもう一度会えるなら会えたら嬉しいだろう。本が欲しいと思ったのもあの女の子が少なからず関係しているだろう。長くいるこの病棟での暇つぶしはテレビを見ることだけで、本を読みたいと思ったことは一度もなかったからだ。

 

「そう言えばセンセはどこが悪くて入院してるん?」

「あぁ、ぼくは…えっと…あれ、なんで入院してるんだっけな」

「え?どこが悪いか忘れたん?センセ、それはおもろすぎるわ」

 

男の子がゲラゲラと笑っている。だけどなぜ自分がここにいるのか思い出すことは出来なかった。ぼくはいつからここにいるのだろうか。かなり前からいることは知っているが、いつからいるのか分からない。そして、いつまでここにいるのかも分からない。きっとどこかが悪いから入院することになったのだろうし、それが治ればこの病棟ともお別れだ。しかし、いつの頃からかこの生活が日常になってしまった。いつここから出ていくのかということは考えなくなった。不思議だ。

 

「ま、ええか。センセ、そろそろ時間やからおれ帰るな」

 

そう言って男の子は松葉づえを器用に使って談話室を出ていった。男の子に言われて自分がなぜここにいるのか気になってきた。なんでそんなことが思い出せないのだろう。外傷があるわけではないから骨折ではない。毎日検査はしているが体感的にどこが悪いという感覚はずっと前から無い。明日の朝の検査で看護師に聞いてみるかと思った。

 

今日は久々に外に出たし、人と喋った。普段はこんなに喋ることがないから疲れた。そろそろ自分の病室に帰ろうと立ち上がるとき、さっきまで男の子が座っていたあたりでなにかがキラリと光った気がした。近づいてみると机の上に50円玉が落ちている。「なんでだろう」と思って手に取ると、ほんのりと暖かい。さっきまで誰かが持っていたものだと分かった。

 

『誰かが欲しがっているものをあなたが持っていたなら迷わずそれをあげなさい。そうすれば――』昔に読んだ、ナンパ師が書いた本の一節を思い出した。著者のナンパ師はナンパは洞察力と包容力だと言っていた。まず、相手を知ること、それから相手を包んであげることだと。ただし、相手を知るために質問をしてはいけない。洞察力でもって相手の気持ちを読み取ることが大事だと。

 

この自販機には50円で買えるジュースが一つだけある。

 

なにが出てくるか分からないランダムジュースのボタンだ。この談話室に来たときぼくは自販機の前まで来て、手持ちの小銭が無いことに気付いて机に座った。そのとき男の子はスマホをいじっていたが、もしかしたらぼくが小銭を忘れたことに気付いたのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。50円玉は机の上に”立って”いたのだから。落ちていたのではなく、置いたのだ。たまたま立つことなんてあり得ない。

 

「やられたな」

 

ぼくは男の子にまんまとナンパされてしまった。

 

自販機に50円玉を入れてランダムジュースのボタンを押した。なにが出てくるのだろう。ガタンといって出てきたのは冷たいコンソメスープだった。

 

「なんだこれ。せめて温かいのが出てこいよ」と思ったが、期待ハズレのものが出てくるのもこのボタンの愛嬌だ。今度、男の子に会ったら温かい缶コーヒーでも返してやろうと思った。

 

誰もいない談話室は寒くなってきた。コンソメスープは病室に戻ってから飲もう。